抽象的な良さを
先日、ちょっと落ち込んでいる友人と話す機会があった。
試験に合格するという目標があって全力でやっていたが、失敗してしまったので続けるかどうしよう、といった悩みを聞いた。
こういうとき、私は相談相手の希望となれるような答えを導ける自負はまったくないので、その時間が楽しいものになるように気ままに雑談するくらいである。
自分が何度も落ち込んだとき、同じ言葉でも響く日と腹を立てる日があったし、誰かの言葉で目が覚めるときもあれば、自分自身で悩みぬいて解決するしかなかったり、寝て起きてを繰り返すだけの方がよかったこともある。
自分の気持ちさえコントロールが難しかったのだから、まして他人にかけて良い言葉なんてもっと難しいと思う。
そんな中で、一つ頭に残ったのは「この試験から離れて、自分の生活からなくなってしまうのが怖い」といったつぶやきだった。
まことに勝手ながら、懐かしさと羨ましさを強く感じる。
生活の中心に、ものすごく大きい何かがあって、全ての行動がそれを中心に回っているという暮らし。
それは縛られていて苦しいといった感覚がある一方で、すべてがそれに還元されていくという一体感のある生き方である。
最近の私はむしろ、何かを失ったところで対して痛手のない生き方を選択してきたように思う。
家族や友人は失いたくないと思うけれど、自分の趣味や嗜好が一つくらい欠けたって、一晩悲しむくらいで忘れてしまうのではないかと思うくらいには小さいものだ。
ひとつのことに縛られるのが嫌で、色んなものに手を出してきたけれど、その結果また何かに固執したいと思っている私がいる。
けれどそれを踏み出せないのは、何にも縛られていない自由というものに固執しているだけなのではないかと、思ってしまう。
あらゆる選択肢の中で、最適解ではないものに縛られてしまったら……と思うと、怖くて一歩が踏み出せない。
きっと何かが始まってしまったら、それに腐心することが自然と至上主義になるんだろうけれど、そうなった自分の姿を想像しているうちは、すでに何かが始まっている人を見ると、どうしても羨ましいなと思ってしまう。
いや、どうなんだろう。羨ましさと同時に、多少の同情も感じるような気がする。奔放な人生もまた楽しいのにと。
私はいまだにどっちつかずだ。
こういう議論はいつも堂々巡りで、結局のところ川の流れを読むような落としどころになりがちだ。
それでも自分の中には信念があって、きっと何か譲れないものはあるんだと思うけれど、それが何なのかいまだにわかっていない。
それでも何か、言葉にしてみようとするならば……。
短くまとめると「勝敗のつく芸術が好き」だと思う。
現状維持だけは嫌いな人間性だと理解しているので、次々に変わっていきたいとは思う。
その変わるというのが、前に進んでいるかはさておき、同じことの繰り返しで安心することだけは避けたいと思っている。
そういう観点から、勝敗が付くことは好きだ。勝てば何かが変わっている、負ければ何かを変える必要があるということが肌身で感じられるから。
その一方で、無味乾燥な数値を競うことはあんまり好きではない。
相手と対面して、あらゆる変数がある中で最適解を選び抜いていくのが好きなのであって、最適解があらかじめ用意されていてそれを正確にたどるだけの競争はあんまり興味がない。
そうなると、勝敗が付くのに芸術的である必要がある。
その一方で誰かの私的な評価によって順位が決まることは好まないから、当事者間での競争があって、それが傍から見てどうにも美しい、といったものが好きなのである。
けれど勝敗のために芸術が必要なのではなくて、その洗練された形が自然と芸術になっていて観る者を魅了する……といった世界がもっとも好きだなと思う。
分かりやすく言えば「洗練された動きはかっこいい」的な、男の子のよくある憧れなのかもしれない。
そういう抽象的な良さを追いかけたいと思っているからこそ、道に迷ってしまうのだろうか。